正月早々、高齢化社会を考える

この2~3年、自分に近しい人間の高齢化が急激に進んでいるのを感じる。

父は3ヵ月前に90歳になった。
意気軒昂だが、価値観が固定化しているので、できることや生きる領域が徐々に狭くなってきている。

母は父の9つ下だが、2年前に病気を患って以来、半身が不自由な生活である。
買い物、料理、人との交流ができなくなり、情報のインプット量が以前の数分の一になった。アウトプットも同様である。
すると人間の精神は徐々に衰退する。

父の姉は耳が聞こえなくなって久しい。
聞こえないから電話でコミュニケーションが取れない。
マンションで一人暮らしだが、最近、メールの送受信が出来なくなった。
かろうじてファクスは使えているが、最近は送信が出来なくなったらしく、連絡は一方通行である。伝わっているのかいないのかも定かでない。

高齢者は、ある日にポッと何かが出来なくなり、時にはまた出来るように戻って安心するのだが、そのうちまた出来なくなり、いつしか完全に出来なくなる。
そういう“出来ないもの”が少しずつ増えていく。

他人事ではない。かくいう自分も人の名前が最近なかなか出てこないので、“出来ない連鎖”の世界に入り込んでしまったと言える。

例外は妻の父だ。御年86歳だが現役バリバリである。
車の運転、料理、健康管理、、、すべてが若い人よりできる。
こんな後期高齢者は見たことがない。
聞けば、仲間たちと筋肉トレーニングを行っているという。

肉体と精神・知能は連携する。
衰えを防止する日々の努力をするべきだ。

私には、自分でこしらえた“修身数え歌”というのがある。
(正確には、まだすべての数がはまっていないので『制作中』が正しい。)
1~10の自分への戒めがあるのだが、その9番目は、
「九つ、90歳まで進化する」だ。

90歳まで進化しながら生きて、その後はある日ぽっくり逝く、というのが私の理想の高齢者像だ。