ハンコ文化消滅の危機に思う

菅内閣の下、規制改革担当大臣に就任した河野太郎が行政手続きのかなりの部分で押印を廃止しようとしている。
これで湧き上がったのが「日本のハンコ文化がなくなるのでは」という議論だ。

私の親戚はハンコ屋である。
河野太郎のせいで店が潰れてしまっては困る。
ここは親戚のためにも河野に反対すべきか。

もちろん河野発言をもって「日本からハンコ文化がなくなる」と考えるのは極端だ。
河野自身、「行政改革としての押印廃止と、文化としてのはんこは別」と明言している。

とはいうものの…もし抜本的に押印がなくなれば、ハンコ屋はかなり厳しくなるだろう。
なんせ、必要かどうかは別に、会社や学校などの組織は構成員のハンコをとりあえず揃えておく習慣があるから。
業務上の押印がなくなれば、そうした“とりあえずの印鑑”の作成は激減するだろう。
よって親戚のために河野に反対!

ただ、押印の習慣を見直すことは時代の流れとしては当然だ。
ビジネス上の押印は
「はい、ちゃんと文書を出しました」
「はい、ちゃんと了解しました」
と、いわゆる“決裁”の証として機能している。
よって、重要文書について印鑑を必要とするルールは別に悪くない。

問題なのは、行政であれうちの会社内であれ、印がなければ先に進まない、けれど内容的にはどうでもいいくだらん書類が何万枚も横行していることにある。

うちの会社で言えば、ただの回覧文書にも印が必要。
印がなければその文書は何度でも手元に戻って来る。

仕入報告書もしかり。
最近、卸売会社も買付集荷が増えてきて、毎日の仕入報告書だけでも何百枚とある。
かつて私は仕入報告書の押印をやめようと進言したことがある。
返ってきたのは「じゃぁ決裁の所在をどうするのか」という問い詰めだった。
もしその仕入が不当なものであることが後に発覚した場合、責任は誰が取るのか決めておくことが必要というわけだ。

その何万件に一件あるかどうかわからない問題のため、何万回も押印しているわけだ。
ムダの極みだ。
そして、何万件も目を通すことはできないので、ハンコが増えれば増えるほどいわゆる盲判(め●らばん…今では使用禁止用語だ)が増えることになる。

したがって無駄な押印をなくすことはいいことである。
ただし、印かんをなくすならば、こういう文書は誰それ、この文書は誰それ、という責任分掌の仕組みを作らなければならない。
その規約を作るのが面倒くさくて、結局メスを入れるのをやめて現在に至る。
だが、河野太郎のおかげで時代の潮目も変わるかもしれない。

自動で流れりゃいい処理は無印で結構。
そうなればペーパーレス化も今より進む。
それを“文化”と混同すると話がややこしくなる。

ちなみにハンコ文化が残るのは世界的に日本と台湾だけだそうだ。
希少=不要なのか、希少ゆえに残すべきか。
文化は当然残すもの。
ハンコ文化はオシャレである。
親戚はなんとか文化面で新しい需要を産み出し、末永く商売を続けていくことができるようになる、という前提でもって、河野太郎の目論見には賛同したい。