最近、ブログの文体は常体で統一している。
書き始めた頃は、その日の気分や内容(テーマ)によって適当に使い分けていた。
しかし、後でいろいろ見返すと、常体と敬体の混同はやはり良くないと感じた。
例え1日ずつ独立していても、一冊の本(このブログが本になることはないが)の文体に統一感がないのはやはりおかしい。
どちらにするかはやや迷った。
内容によって敬体がふさわしいと感じる場合が少なくない。
(少なくないどころか、7割ぐらいは敬体がよいと感じる。)
だが、時々「今回は絶対に常体だ」という時がある。
真面目な内容で、自分の思いを強く打ち出したい時などがそうだ。
敬体で書きたい時の方が多いが、少し調子が固くなっても常体に直すことはできる。
逆に、絶対に常体だという内容を敬体に直すのは困難だ。
なので、統一するならば常体しかないかな、と判断した。
一般に、一つの文書の中に常体と敬体が混在するのは日本語としてまずいとされる。
私がこれを意識するようになったのは小学校4年の時だ。
4年生になって、時間割に初めて「クラブ活動」という授業ができた。
私の通った金沢大学教育学部附属小学校では、スポーツクラブ、音楽クラブ、、など色々のクラブの中から興味があるものを選択する。
各クラブには4年生から6年生までが集う。
一週間の授業の中で唯一の学年縦断の場だ。
必然的に、6年生のお兄さんお姉さんは指導役になる。
4年生の私が選択したのは「読書クラブ」だった。
そこで、最近読んだ本の読書感想文を書いて、皆の前で発表することになった。
忘れもしない。
私のデビュー作は「大泥棒ホッツェンプロッツを読んで」だった。
6年生のお兄さんが、私の発表を聞いて言った。
「最初にあらすじを書いて、その後に感想を書いたのはわかりやすかったです。けど次はあらすじと感想を同時に書いていく方法を試してみよう。その方が作文の勉強になります。あと、文章に常体と敬体が混ざっていたので、どちらかに統一した方がいいです」
なんとも見事なお兄さんだ。
その時の私の文章レベルに対し、完璧なアドバイス。
最初にちょっと褒めてくれるあたり、やさしさもある。
さぞかし立派な方になっておられるに違いない。
私も50年前のことをよく覚えているものだが、ほぼこの通りだったはずだ。
それほどそのアドバイスは私にとって鮮烈だったのだ。
…常体?敬体?
最初、何のことかわからなかった。
お兄さんの発言を受けて、顧問の先生が私に解説してくれた。
常体…文末が「〜だ。」「〜である。」
敬体…文末が「〜です。」「〜ます。」
以来、うっかり以外は文体に統一感を失うことはなくなった。
あのお兄さんは私にとって生涯の師である。
会社で社員のレポートを読むと、いい大人なのにまだ文体の統一ができていない者が数多くいる。
あまりにたくさんいるし、私の大先輩にもいる。
ということは、最近の若いもんは…という問題ではない。
彼、彼女のこれまでの人生に、文体について注意してくれる人にたまたま遭遇しなかったらこうなる。
本人のためだし、外でまずい文章を披露すると会社の恥にもなる。
文体の不統一を見つけたら、最近は赤ペンで指導するようにしている。
今思いついたが、これからは、かの6年生のお兄さんのように、冒頭は「いい内容だったよ…」とちょっと褒めてあげる気遣いをするように心がけよう。