選挙はがきを見てのそこはかとない思い

家族全員の名前が記載された投票券

 衆院選の投票を31日に控え、自宅に投票のはがき(投票所入場整理券)が来た。中を開いてびっくり。4人分ある氏名欄がすべて埋まっている。私、妻、長男、次男。高校3年生の次男が先日、18歳になったから投票権が出来たのだ。

なんてことないがそこはかとない。

 ついこの前までは私と妻の2名しか記載がなかったのに。なんてことないことだが、なんとなくそこはかとない。おっきくなったんだなぁ。ここまであっというまだったなぁ。おれもとしとったなぁ。

投票に行かせよう!

 次男は、選挙なんて行く気がない、と言っている。普通の若者感覚だ。私が初めて選挙に行ったのは、金沢に戻ってからだ。つまり30代後半だ。15年くらいは国民の権利を放棄していたことになる。ただし、金沢に戻ってからは一度も投票を欠かしていない。東京・京都時代は、自分が票を投じること自体が間違っていると感じていた。東京の住民である、京都の住民である、地域の一員である、という意識や愛着がなかったからだ。次男には、政治に関心がないとしても、行くだけ行こうと進言した。投票を放棄するより、白紙を投ずる方がまし。白紙を投ずるよりも誰かに投ずる方がまし。それが適当な考えであったとしても。そしてもちろん、適当に投ずるよりも深く考えて投ずる方がましだ。

故 澁谷弘利氏の主張

 先日亡くなった澁谷工業の澁谷弘利社長が、会食でご一緒した際「一人平等に一票という制度は反対だ、それなりの資格には複数票を与えるべきである」と毅然とおっしゃっていたのを思い出す。政治に全く無頓着な人間が、人気だけのタレント候補に投票する、マスコミが作為的に作った〝風〟なるものでコロコロ勝敗が入れ替わるのは結果的に国家の首を締めることなる。収めた税金の額なのか、何かの実績に応じた特別待遇なのか、試験や資格で与えるのか、人によって付与する投票数に差をつけるのは理にかなっている。現代の平等思想の元では暴論に属する主張かもしれないが。手元の届いた投票券を見ていて、そんなそこはかとない考えも浮かんでくるのあった。