老害の根本
老人との向き合い方について最近よく考える。年老いていくにつれ、体力はもちろんのこと認知力に衰えが来る。誰しも避けられないことだ。困ってしまうのは、認知力の衰えよりも、性格や価値観が頑な(かたくな)になって、人の言うことを受け入れなくなることである。何かにこだわると他のことが手につかない。それは違うよ、正しくはこうだよ、と諭しても価値観を決して変えない。感情の抑制もできなくなるためか、激しく怒り出すことが多くなる。行き着くところは、コミュニケーションの断絶だ。適当な言葉が見つからないが要するに「聞き分け」がどんどん悪くなる。いわゆる「老害」の根本はここにあるように思う。
スルーするしかない?
認知症の予防や対策はいろいろ紹介されているが、「聞き分けの悪さ」への対処法はあるのか。私は知らないし、実はもう諦めてしまっている。言っても仕方がないことは言わない。向こうが変なことを言ってきたら、はいはいと受け流し、適当にスルーしながら時間を稼ぐ。そのうちうやむやになることを狙う。正面から向き合わない卑怯な〝戦法〟だが、これも仕方がないと割り切っている。もっと良い(正しい)対処法があったらぜひに指南を受けたい。私にはまだ答えはわからない。
穏やかなジジイになりたい
自分もいずれそうなるのか。認知力はすでに若い時より衰えを感じているので今後は工夫次第で何とか進行を遅らせたいが、せめて聞き分けの悪い老人にならないようにしたい。頭は悪くても穏やかで優しいジジイになりたいのだ。だが、人間の情緒ははかないものだ。外部要因にたやすくコントロールされる。だから私の死生観は非宗教的だ。人は死して無に帰する。魂は永遠ではない。寝ている時ですら無なのに、どうして死が無でないことがあろうか。そう思っている。ちょっと話が飛躍しすぎたので今日はここまで。