書評:鬼滅の刃(原作コミックス)

遅まきながら原作コミックスを読んだ。

原作は昨年5月に週刊少年ジャンプ誌上で完結し、コミックス第23巻は昨年12月に発売した。

大ブームで最終巻を買い求める人々は長蛇の列をなし、またたく間に売り切れの事態となった。

面白い。その面白さにケチをつける気はない。

しかし、新型コロナで落ち込む“日本経済の救世主”と呼ばれるほどに物凄い内容かと問われれば“それほどではない”というのが正直な感想だ。

爆発的ヒットの要因は、原作マンガ、アニメ戦略、ネット配信、映画製作など、複合技のたまものだ。

画力の弱い原作を優秀なアニメーターが質の高い完成品に仕上げ、ネットで惜しみなく拡散し、ドンと映画に結び付ける。

作り手と売り手の極めて戦略的な仕掛けが成功している。

しかもクライマックスたる映画は、物語全体の1/3のポジションだ。

まだまだこの先もブームは続く。

私は鬼滅のここがどうだ、あれがどうだと書く気はない。

強調したいことはただ一点。

見事に完結を果たしたことを高く評価する。

コミックス23巻という分量。

名作として後世に残る作品とするには申し分ない量でしっかりけじめをつけた。

しかも、終盤に向けてどんどんテンションを高め、最後は大団円とした。

作者の吾峠呼世晴(ごとうげ こよはる)氏はプロットをしっかり練りこんでの連載だったのだろう。

最終巻のダイナミックな展開、テーマの明確さ、全登場人物への敬意(エキストラ的端役にも作者の愛情が感じられる)、読者へのメッセージ性は素晴らしい。

作品が完結することは非常に重要である。

世に一旦はまばゆい光を放ち読者を虜にする作品はあまたあれど、完結への道のりがまずいために“駄作”と化したものがなんと多いことか。

それは「名作のなりそこね」という名の“駄作”である。

途中まで大いなる期待を読者に抱かせるだけ普通の駄作より罪は深い。

叱られるかもしれないがいくつか実名を挙げる。

マンガでは「はじめの一歩」、「ガラスの仮面」。

「ドラゴンボール」も私からすれば同類だ。

小説で真っ先に思いつくのは「グイン・サーガ」。

当初の計画どおり100巻で終われば名作だったろうに、冗漫に伸びるうちに作者は病気で他界してしまった。

現在も別の書き手が作品を引き継いでいるが、栗本薫でなければそれはもう別の作品だ。

アニメで言えば「新世紀エヴァンゲリオン」。

途中から世界観がよじれによじれ、逆にカルト的人気を得たが、テレビ版にせよ映画シリーズにせよ、世に出す以上あの顛末は創作のプロとして失格である。

明確なプロットがなくだらだらと垂れ流せば、名作の「なりかけ」が「なりそこね」に堕ちる。

その罠を回避し、鬼滅は見事に完結した。

主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)の優しさとひたむきさは、今の時代、かえって新鮮だ。

妹・禰豆子(ねずこ)のため人生すべてを捧げる愛の深さと心の強さは、作品を読む子どもらに大きな影響を与えるだろう。

物語をしっかり完結させたのも、作者が作品に愛情を注いでいたからこそだ。

世のクリエーターは鬼滅を見習い、自己の手掛ける作品の完結に責任を持ってもらいたい。

だらだら垂れ流すのは、つきあってくれた読者を裏切るものだ。

膨大な時間を返せと言われたあげく、本屋からやがて消えゆく運命を辿っていいのか。

それは本当にもったいないことだ。

きらめく才能があるのだから、ちゃんと物語を完結させよう。

鬼滅の刃は、その当たり前の重要性を改めて教えてくれる良書である。