葬儀のあり方

我が社の社長のお母さまが他界され、お通夜と葬儀が開かれた。

社長は親戚が多く、野球方面での交流も広く、立場が立場なので仕事関係者(市場、産地、お客様等)も含め大変数多くの方にご参列いただいた。

式は通常通りの形式で、定刻よりのお経、喪主からの挨拶、葬儀では出棺まで執り行われたが、このご時世である。ご遺族の親戚と社員を除いては最後まで参列された方はほとんどおらず、大多数はお焼香をされたのちに遺族に挨拶をされそのまま帰られた。

新型コロナウイルスの影響で、葬儀の在り方が大きく変わった。

家族葬で済ませる人も多く、済ませた後の事後報告でようやく世間に知らせる人も少なくない。

式は開くがイスを全く置かない、いわゆる「回り焼香」の形式も今では定番だ。

これら簡易的なスタイルは恐らくコロナが終息しても元に戻るまい。

また、それでよいと思う。

仕事上の付き合いの場合、最初に挨拶してお香典を置いていく。

それで十分である。

長居は無用だ。

一方で、通夜葬式は遺族や友人知人らが集まって故人を偲ぶ大切な儀式であり、その機会が失われるのは良くない。

家族葬を選ぶ人が増えているのは個人的には寂しいと思う。

家族葬にするのは、案内するのもためらわれる、という心理が働くからだ。

中には、こじんまりと済んでやれありがたやと思っている人もいるだろう。

家族が逝去したら必ず式を開か“ねばならない”日本のしきたりを嫌っていた人もいるはずだから。

しかし本来、葬儀はその人の“死”を人々に知らせる社会的な役割を担っている。

参列者は、式に出ることで故人の“死”を実感し、気持ちに区切りをつける。

故人を直接知らない人は長居は無用。

逆に、故人を大切に思う人々が、それこそ長居をしてゆっくりお別れする時間を設けることは人間としてとても大事なことである。

葬儀そのものは存在意義があるのだ。

要は、意味あるものは守り、形骸化したものは切り捨てること。

コロナによる社会変革で、守るべき部分と不要な部分を切り分けが加速すればよい。

今までが中途半端にぐだぐだ、なあなあになっていた風習、しきたりが多すぎたのだ。