暗い、重い、悲惨すぎる… 映画「ジョーカー」の感想によく出てくる言葉です。
まあ確かに。
映画全編を覆うトーンから、そう感じるのはむべなるかなです。
しかし私にはこの映画、絶望の底から自由と解放を勝ち取る、一人の男の覚醒を描いたドラマに映りました。
ですから、悪の道への“転落”ではなく“昇華”の物語であり、ならばこそ主人公は次の境地に到ったのだと思います。
「人生は悲劇だと思ってた。だが今わかった、僕の人生は喜劇だ」
不条理が渦巻くゴッサムシティに大道芸人として生きるアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、コメディアンを目指すも精神疾患…ストレスを感じると意図せず笑い出してしまう心の病…を抱え、周囲から差別、虐待を受ける日々を過ごしています。
職場仲間から拳銃を与えられた彼は、それがために仕事を首になり、電車内のトラブルから3人を殺害してしまい、さらに出生の秘密を知って一層狂気が増幅し、夢だったコメディアンへの思いを無残な形で踏みにじられ、ついに彼の精神は臨界点を超えます。
劇中、何が現実で何が妄想か判然としない手法で物語が進みます。
しかし、彼がアーカム州立病院で自身の出生の真実を知るあたりから、しだいに“虚構”から“リアル”な存在に固まってきたように感じます。
ザジー・ビーツ演じるシングルマザー、ソフィーが殺されたのか何もなかったのか議論があるようですが、追及は不毛です。
映画監督が意図的に示さない選択をしたということ。つまりどちらでも自由に想像してくれということです。
(私は“殺られた”と思いました。)
デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンをLIVEで殺害するシーン、及び深夜のゴッサムシティーでパトカーのボンネットの上に立ち上がり暴徒たちを見下ろすクライマックスは、映画のたたみかけとしては文句なしのな展開でした。
絵が美しい。内容は暗く、凄惨ですが、美しい映像の連続でした。
ラストは精神病院です。
彼は面談で例によって笑い出し、それを問い質す精神分析官に「ジョークを思いついた。でも君には理解出来ない」と言います。
その笑いは、もう完全に精神疾患のそれではなく、確信的な笑いです。
かつての彼は、顔は笑っていても心の中は苦しみに満ちていました。しかし今は心の底から笑っています。ものすごブラックに。
もうすっかり「アーサー」ではなく「ジョーカー」です。
そして唐突に血の足跡を残しながら逃亡するラストシーンへつながります。 その走り方に暗さはありません。ユーモラスですらあります。
この展開こそがジョークの中身だったのでしょうか。
精神分析官は何の罪もないのに殺られちゃったんですかね。
殺っちゃう対象は無差別の危険なヴィランになってます。
この映画を観て暗鬱になる人が多いようですが、私は楽しめました。
主人公に共感も同情もしませんでしたが、カタルシスを味わうことはできました。同時に切なさも。
これはジョーカーの辿りついた、極めて異質の“幸せ映画”です。