半農半Xは市場流通の敵か味方か

半分農業、半分は別の何か

 農で今年キーワードになりそうな用語が「半農半X」だ。「はんのうはんエックス」と読む。この言葉が誕生したのは最近ではない。京都府の塩見直紀氏が1990年代半ばから提唱してきた営農スタイルである。文字通り、半分は農業、半分は別の何かをして生きていくことだ。もちろん専業農家ではなく、また兼業農家とも違う。多様な農家の在り方の一つとして再び脚光を浴びてきた。岸田政権肝いりの「デジタル田園都市国家構想」とも関連し、農業と他の仕事を組み合わせたライフスタイルを支援することで、担い手のすそ野を広げる狙いがある。

コロナ禍において再び脚光

 新型コロナウィルスの猛威によって在宅勤務、リモートワークが一気に進み、都心部から地方への移住を志向する人が増えている。そんな人々が本業に加えて自給自足の農業に着手することで持続可能な暮らしを営めるようになるという考え方らしい。

自給自足の世界

 注意すべきは、決して華やかな世界観ではないことだ。以前よりも収入が下がることを前提としたライフスタイルである。就農前と同じ生活水準を求めるのは難しい。仮に都会から地方に移るとすれば、収入も減るが生活費も下がる。作る農産物は自家消費に充てるのを基本とする。自治体の支援をある程度あてにするのも必須条件のようだ。

新たな半農半Xのモデルを示せ

 この定義からすれば、むしろ卸売市場流通とは対極にある世界と言える。究極の家庭菜園だ。半農半Xが増えれば増えるほど市場流通は減少するかもしれない。そこで我々が必要となるのは、一歩(または半歩でも)踏み出した新しい半農半Xの提唱だ。自家消費に止まらず、何がしかの所得向上につながる関わり方を提示すること。塵も積もれば…ではないが、新しい仕組みを構築すれば大きなロットになり得る。卸売市場がその役を担える要素はあると信じたい。

裏日本、雪、農業

ファーム菜四季のキャベツ畑

能登の積雪

 子会社である「ファーム菜四季 穴水農場」に行った。能登は金沢よりも雪が深い。ざっくりしたイメージでは、金沢が10㎝なら能登は30㎝だ。先週水曜日の降雪で能登の畑は一旦こんもりと雪に覆われた。今、穴水農場はキャベツ「あやね」の収穫期だが、雪に隠れてどこに何があるのかわからない状態になった。

溶けてきたら収穫ダメ

 その雪がようやく溶けてきて、今日はキャベツの姿がはっきり見えている。しかし農場長いわく「雪がこんもりの時は収穫できるが、溶けだした今は一番ダメな時」だそうだ。ふんわりの雪にすっぽり包まれているとキャベツの温度は安定する。零度かもしれないが、+10度や-10度にならない。雪の下にいる分には、甘みが増すとさえ言える。しかし、雪が溶けて農作物の頭が出始めると状況は一変する。品温は外気の温度に左右され大きく上下する。夜は氷点下になって雪(水分)は凍る。日中は氷が溶けて水になり、作物をべたべたにする。それが腐りの原因になる。また、ふんわりの雪の状態の時は、ほじくれば収穫できる。対して、中途半端に溶けて凍ってしまうと、周りがカチカチになってしまって掘り出せない。

裏日本の厳しさ

 そんな事情について、太平洋側の農家はピンとこないかもしれない。基本的に太平洋側は晴天が多く雪など降らない。日照が少なく、降雨降雪の多い日本海側はハンデがある。同じ農業をしていても収穫量に大きく差が出るのは当然だ。裏日本は基本的な生育条件が厳しいのだ。

裏日本は差別用語?

 ところで〝裏日本〟は差別用語だそうだ。茶道の表千家・裏千家は差別用語でないのに、表日本・裏日本はなぜ差別なのだろう。実際、この地は曇天続きで湿り気が多い地域であり、イメージ的に〝裏〟はしっくりくる。人間性もやや陰りがある人が多いかもしれない。が、それはそれで深みと趣のある世界観を出している。私は特に〝裏日本〟という言葉に屈辱感を覚えない。

地場農産物を大切に売る

 話を戻す。石川県はそもそも生育環境でハンデを抱えているのだ。子会社の畑を観察するとよくわかる。いいものを安定的に産み出すことがいかに難しいか。それがわかるからこそ、地元の農産物を大切に売ろうという思いが強くなる。我が社の若手社員は子会社の農場も含め、もっと地場農業の現場に足を運ばなければならない。

オペラ「ZEN-禅-」:レビュー

高校時代の恩師の作品

 ともに石川県出身で友人関係だった仏教哲学者鈴木大拙と哲学者西田幾多郎の生涯を描いたオペラ「ZEN-禅-」を昨日鑑賞した。世界初上演である。当初は2020年に上演予定だったが、ゴロナの影響で延び延びになっていたものだ。台本を書かれたのは、私の高校時代の国語の教師、松田章一先生である。

哲学・宗教とオペラのマッチング

 鈴木大拙と西田幾多郎。名前は知っていても、著作や思想を勉強したことがある市民は1%もいまい。この二人を描く媒体が〝映画〟なら芸術路線で割とありそうな企画だし、〝ミュージカル〟でもまだ現実感がある。ところがもっとぶっ飛んでオペラである。この着想が素晴らしい。禅とオペラが融合するとどんな世界が現出するのか。なんとも魅惑的ではないか。

わかりやすさと深遠さ

 開演前は作品の内容を想像すらできなかった。しかし、全歌詞がスクリーンに映し出されたこともあって、展開はとてもわかりやすく理解することができた。筋としては、鈴木大拙の修行期・結婚・教職時代・戦中戦後の節目節目の場面を描いた。禅についての深層にあえて踏み込まなかったのは意図的だろうか。また鈴木大拙のウエートが圧倒的で、西田幾多郎の存在感は希薄だった。題材が題材だけにもったいない気がする。難解になってもよいから、両者の哲学的な精神世界をオペラ的表現で観せて欲しかった。劇中にも〝(禅では)わからんことがわかる〟というくだりがあったように。

音楽は素晴らしい

 渡辺俊幸氏による作曲で構成された音楽は、オペラに疎い私が聞いてもとても素晴らしく感じた。特に禅の精神を歌詞とする楽曲は美しかった。〝松は松、竹は竹…〟は西田幾多郎「善の研究」にある文言らしい。〝ただ座れ 求めるな〟は禅宗の「只管打座」だ。英訳は〝Just sit down and don’t ask.〟これは〝Don’t think, feel.〟を連想させる。私は俗っぽく、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」、ヨーダの「スターウォーズ」で放ったセリフを思いだしてしまった。オペラ劇中でも東洋思想と西洋思想は支え合えると言っていた。

祝上演、そして後々も

 終盤は戦争の惨禍の中から、禅によって精神の自由を獲得する大拙の姿を描く。感動的なフィナーレで観衆は大いに魅了された。観終わった印象はとてもよい。カーテンコールは暖かくも激しい称賛の拍手に包まれた。台本作者の松田章一先生もカーテンコールで登場された。意気軒高なご様子。だが齢85で足元はやや危うい。不遜かもしれないが表現かもしれないが、ご存命中に上演できたことは本当に喜ばしいと思う。そして、この作品の評価が高まり、後々まで上演されるオペラになることを願う。

青果物の週間情報 【2022-W4】

■週の概況 第4週 1/24(月)~ 1/29(土)

【全体】

 生産・流通は気象状況で大きく左右される。今は一年で一番寒い時期であり、全体的に少量気味。しかも燃油高で加温栽培は消極的であり、施設物の量は減少傾向だ。売れる売れないは別に、分母数が減少するため果菜類は上げ相場となる。品目としては胡瓜、ピーマン、なすなど。また、長く低迷が続いたダイコンも数量が絞られ、安値ながら底上げ傾向となる。

 消費面は気温、催事、社会情勢に左右される。気温は低くサラダ商材より鍋物用野菜の方が活発に動く。催事では節分いに向けた需要が出る。特に恵方巻の具材となるキュウリは価格上昇が顕著だろう。他にしいたけ、大葉、菜の花等にニーズがある。社会情勢ではオミクロン株の感染拡大が心配で、すでにイベント・会合は軒並みキャンセルとなっており、業務需要はまたも厳しい状況に逆戻りとなる。

 果実はいちごの少ない状態が続き高値基調だが、ジリジリと量は増えてくる。中晩柑類は順調だ。種類・量ともにこれからますます増え、中晩柑橘類全体が盛りを迎える。

【野菜】

 葉茎洋菜類では、ブロッコリーは冷え込みの影響から、減少傾向が続く。キャベツは数量が安定し、前年より安値となる。ねぎは埼玉産、県内産の入荷。価格は引き続き安値推移が続く模様。菜類では、ほうれん草が主要産地の生育遅れから価格は上げとなる。

 果菜類では、胡瓜は低温による減少と、節分を控えていることから相場は上昇する見込み。トマト、ミニトマトは愛知産主体の入荷。数が減少して価格の底上げとなる。みつばや春菊は数量が安定し、前週に引き続き単価は下げが予想される。

 根菜類では、大根は、冷え込みの為、太物の比率は少ない。蓮根は天候の影響から数量は不安定だ。甘藷は県内産を中心に安定した入荷。馬鈴薯は北海道産、鹿児島産、長崎産からの入荷で、生育遅れや早期の切り上がりから不足感は続きそうだ。玉葱は、不作に加え産地での大玉比率が低く、数量確保が難しい。

【果実】

 国内果実では、みかんは長崎産、和歌山産に加えて、徳島産の貯蔵物がスタートする。苺は高値疲れから価格は下げに向かう。メロンは重油高から休作する生産者が増加し、数量は不安定となる模様。伊予柑はピークを迎え、安定した数量が予想される。キウイフルーツは福岡産メインの入荷。和歌山産、愛媛産は不作傾向の為、数量の確保が難しくなる。

 国外果実では、バナナは南米産の入荷が安定しているものの、フィリピン産は不安定になり価格は前年より高値が続く。オレンジはアメリカ産に移行。数量少なく単価は高い。

デジタルフォトフレームが売ってない

写真をお見舞いに

 デジタルフォトフレーム(デジカメで撮った写真を次々と映し出してくれるディスプレイ)を買おうと思い立った。入院中の身内へのお見舞いとしてだ。コロナ禍で面会不可だから、孤独で刺激のない日々がしばらく続く。写真でも見ていれば気晴らしになる。写真を見るのは高齢者の場合、認知症予防にもなるそうだ。

お店に売ってない

 家電屋に行けば5~6,000円でサクッと買えると思っていた。まずカメラのキタムラに行った。ない。続いてヤマダ電機に行った。ない。取り寄せならできると言うが、それならアマゾンでポチった方が早い。店頭に売ってないのは意外だった。デジタルフォトフレームはそれほど不人気商品だったのだ。

多機能なライバル商品

 写真を次々映し出すならスマホでもタブレットでも簡単にできる。PCももちろんできる。我が家に居るアレクサは、写真と同時にカレンダーや時計を表示し、音楽を流し、ビデオを上映する。私の話し相手にもなる。写真を映すしか能がないデジタルフォトフレームは、もう商品価値がなくなったのか。

受動的なコンテンツは面白くない

 少し考えた。不人気の理由は能がないだけではあるまい。アルバムを自分でめくりながら見るのは楽しいが、画面が勝手に切り替わって目に飛び込んでくる写真はつまらないのだ。たとえ同じ写真でも前者は面白く、後者はつまらない。これは不思議な現象だが、おそらく能動的か受動的かで脳の反応が違うのだと思う。本を読む人の方がテレビばかり見る人より頭がいいのとどこか共通する。デジタルフォトフレームは一見とても良さげな商品だが、買って(もらって)から日常で永く愛用する人はほとんどいない。スライドショーなんてものは結婚式かお通夜でしか見ないもので、本来、一度見ればもうたくさんなのだ。人は無意識のうちにそれを察知するので家電としては売れないのである。

能動的に

 というわけでデジタルフォトフレームを買うのはやめた。紙の写真をアルバムにしてお見舞いとする。少しでも能動的に見てもらうために。

強制力の効果

新システムの効果

 会社のコンピューターの新システムでは、販売伝票の入力支援がかなり強化される。これにより、事務作業が大幅に省力化・効率化されることを願っている。今まで1時間かかっていたことが10分で終わる、或はまったくやらなくて済む業務が出てくるはずで、労働時間の短縮や空いた時間を営業活動に振り分けることが可能となる。

営業社員は負担増か?

 一方で、新システムの稼働でむしろ営業社員の負担が増えるのではないかと懸念する声も聞こえてくる。これまでは販売内容を「指示書」に表記し、それを部下又は事務作業専門の者に渡し伝票入力させていた営業が多かったが、今後はコンピュータ入力まですべて自分自身でこなすのが原則となる。その分、営業の仕事が増えてしまうという指摘だ。

指示書が楽か直入力が楽か

 これはもう、発想を転換してもらうしかない。従来通り「指示書」なるものを作り、それを自分で入力するならば確かに手間が増える。しかし新システムは「指示書作成」にあたる業務そのものを端末でやってしまおうという考え方だ。紙の指示書はもう作るな、と会社が社員に対し上から強制するに近い。

強制力の効果

 基本体に人は変化を嫌う。今までのやり方を変えたくない。変化=負担増と考える。よって自主性に委ねていてはいつまでも変わらない。未だにパソコンを扱えない古参の社員はこのタイプだ。だから強制的にやらせる。3ヶ月、6か月、一年経って、やっぱり仕事が増えました、帰りがもっと遅くなりましたであれば、考え直さなくてはならない。しかし多くの場合は、固定観念の方が破れるものだ。やってみたらこっちが圧倒的にいいです、となることの方が多い。

強制力を意識的に配置する

 新型コロナウイルスで、リモート会議が当たりまえになった。コロナという外部要因が強制的な環境を作ったから一気に進んだのだ。リモートで済む会合はコロナが収まってもリモートで行えばよい。強制力の効果を意識的に導入するよう、日々の仕事や勉強にもっと活かせないものか。プロジェクトを進捗させるには、中身の進み具合を無視して会合の日程をバンバン入れてしまうことが意外に重要だ。勉強にしても検定試験に申し込んでお金を払ってしまうことで否応なくやらざるを得なくなる。枠を先に決めてしまうことで逃げ場をなくす。これを自社、自分自身に課すことで結果良しとなるのである。

身内の入院

火傷で入院

 身内が入院することになった。火傷(やけど)治療のためである。熱湯を足にかぶった。近所の開業医に診てもらい、一晩様子を見た。傷みはほとんどなく、不幸中の幸いと思った。しかし、翌日の診療で、傷みがないのは逆に重症と医師から説明を受け、みなびっくりした。痛覚のある神経まで損傷しているから傷みを感じないわけで、それだけ深い火傷なのだ。急遽、本日から大きな病院に移り入院することになった。

二次的な怪我・疾病

 年老いたり重病にかかったりしながら肉体的・精神的衰えが積み重なってくると、二次的な怪我や病気の危険性が増大する。普通に立ったり歩いたりしても転倒しやすく、転び方が悪ければ骨折して寝たきりになる。ヤカンや鍋を取り損なって火傷する事故も容易に想定でき、事実そうなった。本人は日頃から注意はしていた。が1年365日、毎日の生活である。時々失敗するのは仕方ないところだ。

老いに備えて

 極端な仮定だが、転倒しないように24時間車いす生活にすれば、途端に足の筋肉が衰えて本当に歩けなくなってしまう。事故を恐れて家事全般をさせないようにすれば、たちどころに何もできなくなってしまう。人間とは、老いとはそういうものだ。今できることは、できなくなるまで自力で続けるしかない。いずれ私もそうなるのだから、肝に銘じたい。

オミクロン株の猛威②

今度こそは目の前に来ている

 今回のは感染力が半端ない。ついこの前、日本で出た、石川でも出た、と言っているうちに金沢市場内で感染者が出た。会社内でもその恐れのある者が出た。親戚にも出た。あっという間に足元だ。来週あたりは私自身が…というブログを書いているかもしれない。

大騒ぎせずに

 幸いにして今回のは重症化しない。ならばあまり騒がない方がいいのではないか。誰でもそのうちかかるかも。でも大丈夫だから。日頃の予防対策をもう一度おさらいしようね。もしかかっちゃったら回りに移さないよう気をつけようね。…その程度の注意喚起で気楽に構えてはどうか。だが今でも世界的規模で大騒ぎしている。お気楽に構えるのはやっぱりダメなのか。

いまだ根強い偏見の目

 せめて、過去にあったような罹患者に対する誹謗中傷、差別意識からは卒業したい。感染した場合、人から何と言われるか、どういう目で見られるかを恐れる風潮は根強くある。よって人々は、具合が悪くなっても隠し通したいという心理につながる。案外、オミクロン株に感染した人々は陽性判明者の何倍も何十倍も市中にいるのではないか。私は今すでにかかっているのかもしれないし、いやいや、すでにかかって治ってしまっているのかもしれない。なんの兆候、症状もないので検査する気にも今はならないが。

重要な活動は自粛する必要はない

 最近、会社に誘いが来ていた会合、会議、イベントは軒並み中止の案内が来ている。元の木阿弥だ。誰でもかかるよ大丈夫だよ、で済むのであれば、社会の活動を自粛する必要はない。不要不急な会合はまだしも、受験に挑む学生にとっては人生の重要時だ。たとえ陽性になっても試験が受けられる体制にしてやりたい。何年も前から準備してきたイベントが風評を恐れて中止にするのもあまりに理不尽。社会はもっと寛容に構えてはダメか。もう本当にキリがない。

和を以て貴しと為す

修身数え唄その一

 自分で勝手に作っている「修身数え唄」のその一は「ひとつ、人との触れ合いが何より大切」である。〝人と接することが人生にとって一番大事なことなんだ〟という私の価値観は、何か具体的で確固たる根拠や経験があるわけでなく、なんとなくそう思ってきただけだ。ところが最近、聖徳太子についての記述を読む機会があり、思わず膝を打った。

十七条憲法の第一条

 古来から日本人が大切にしてきた倫理であって、大陸からの伝来でない日本固有の価値観、それが「和」である。ならばこそ聖徳太子は十七条憲法の第一条に「和をもって貴しとなす」をもってきた。これは私の「修身数え唄・第一」そのものではないか!私は今後、畏れ多くも自分の前世を聖徳太子であるとしよう。忘れないよう、十七条憲法の第一の原文、書き下し文、意訳を記録する。

原文

 一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

書き下し文

 一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

意訳

 (インターネット上)和を尊重し、争わないことを宗旨(主義)としろ。人は皆、党派を作るし、(物事の)熟達者は(常に)少ない。そのため君主や父親に従わなかったり、近隣と考えが相違したりもする。しかし、上の者も和やかに、下の者も睦まじく、物事を議論して内容を整えていけば、自然と物事の道理に適うようになるし、何事も成し遂げられるようになる。

 (井沢元彦「逆説の日本史」より)和こそ何よりも貴い。むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。

ラジオ放送が販売につながった

ラジオで話したことから特売に

 野菜2部の石野君は隔週金曜日にMROラジオ「あさダッシュ!」という番組に電話出演して、野菜やくだものの入荷状況について情報発信をしている。今朝、私のところにきて次のような報告をしてくれた。

 「いったいどのくらいの人が聴いてくれているのか実感がなかったんですが、先日の放送で話したネタが営業につながったんです。丸いもの話をしたんですが、スーパーのバイヤーさんが聴いてくれていて『あの話、良かったよ、今度このテーマで丸いもを売り出すよ』となったんです」。その話とは石川県加賀地方の特産品である加賀丸いもが受験に縁起がいいというものだった。

番組内容

 …土物類で注目は加賀丸いもですね。受験シーズンを間近に控えたこの時季、丸芋の〝丸〟で合格、〝粘り強い〟ことから受験の縁起物として売り出し中です。JAの方々が金沢神社でご祈祷を受けています。菅原道真のお神酒がかかったこの加賀丸いもで験(げん)を担いでいただきたいです…

 石野くんとしては、丸いもを売るつもりで話をしたわけではない。また、卸売市場の取り組みではなくあくまで生産者側の仕掛けであり、農協の丸いも部会は毎年このキャンペーンを行っていて特に目新しいネタでもない。だが、結果的に我が社の販売促進につながった。

時間と労力を仕向ける先

 ささいな出来事といえばそれまでだが、卸売会社のやるべきエッセンスが盛り込まれている。生産側の話であろうが消費者側の話であろうが、ニーズの元になる情報はいたるところに散らばっている。それを拾い上げて発信することで商売の種になる。これも立派な企画提案だ。誰がやるか。それこそ中間流通たる卸売会社の本分だろう。市場人はともすれば来る荷物をどうさばくかにあくせくするが、行催事、食文化、地域性、誕生秘話、効用、人物像…など、食を取り巻く情報の核を習得し、それを拡散することに時間を投資すべきなのである。